白亜堂とマム

1

 

中学校でも高校でも、ちょっと古くからやっているところには、たいがいどこにも、そう、表の角をちょっと曲がったあたりに、安いパンだの駄菓子だの、あるいは埃をかぶった文房具なんかを、細々売っている店があるものですよね。

 

そうして多くの場合、その店は小さくて、ちょっと雑然としていて、ほとんど客は生徒ばかり。あなたも、先輩も、その又先輩も昼休みにちょいと抜け出しては、買い物したり、見つかって怒られたり・・。

 

ねっ、あなたの学校にもあったでしょ?

 

で、僕らの高校の正門前にあったのが「白亜堂」。

薄暗くて、狭くて、古めかしい店です。

 

そこには、少々耳の遠いばあさんが、一人で店番をしていて、その、店の風情とあまりにしっくり調和した姿に、あれはきっと100年も前から、変わらずにばあさんだったに違いないと、僕らはそう思っておりました。

 

実際は「市高とともに25年」というのが、その店のキャッチフレーズで、100年にはずいぶん足りなかったのだけれど、高校生の僕らには、いずれにせよ自分の生まれる遥か前の話で、それはもう100年と何らかわりはなかったのです。

 

余談ですが、誰が考えたかわからないそのキャッチフレーズは、文化祭のパンフの広告にそえられるや、ちょっとした流行となり、それは駄洒落好きな国語教師が、授業中にネタにして珍しく大ウケしたくらいだったのですが、要はそれほど「白亜堂」は、僕らの日常であり、愛されてもいたということの、明らかな証明であったということでしょう。

 

そうそう、予餞会の舞台で、生徒会長が披露した、ばあさんのモノマネは絶品でしたっけ。
「おばちゃん、カレーパンちょうだい」
「えっ」
「おばちゃん、カレーパン」
「きょうはカツパンないよ」
「カツパンじゃなくてカレーパンだよ」
「えっ」
「カ・レー・パ・ン」
「ああ。まだ蒸けてないよ」
「・・・おばちゃん、それカレーマンでしょ」

 

小道具まで用意して、一人で熱演した会長は、最後にこれがすべて実話なのだと付け加えることを忘れなかったのでした。

 

・ ・・・・・・・・・・・

 

美術部員の僕は、ある夏の日に白亜堂の絵を描きました。

 

ばあさんが店の前のベンチに座って、つくりもののように動かない、そんな絵が描きたかったのですが、点景の人物を描くのは、未熟な僕にはちょっと荷が勝ち過ぎたようです。

何度も描いては消しをくり返して、とうとうあきらめて、誰もいない、寂しいベンチの絵を描きました。

 

本当は、ばあさんをその場に座らせて、モデルにしたかったのですが、耳の遠い彼女に、そのことを交渉する勇気は僕にはなかった。
今になってはちょっと心残りです。

 

不思議なもので、からっぽのベンチの方が夏の午後の静けさが出たのかも知れません。
「白亜堂」の絵はその年の市展に入選しました。

 

2

 

校門を出て、左側の角に新しいお店ができたのは、僕らが二年生になる頃だったでしょうか。

 

「白亜堂」との距離わずかに100m。
すべてがきれいで、明るいお店。名前さえ、あか抜けて「マム」。
口の悪い先輩は、生徒会誌の記事に「見た目の美味しいお店」と書いたものです。

 

実際おいてある商品なんて、どちらも大して変わらなかったにもかかわらず、女子生徒はこぞって「マム」に行きはじめました。

 

そうさ、女の子はいつの時代もきれいなものが好きなんだと、今ならそんなありきたりな感想をもらすのでしょうが、あの頃の僕は何か割り切れないものも感じていたのです。
いくら何でもそんなに簡単に寝返るなよ。ばあさん立つ瀬がないじゃないかって・・。

 

男の子はいつの時代も頑固なのだと、今なら思うのですが。

 

そんなわけで、僕はできるだけ「白亜堂」に通っていたけれど、結局、高校生の義理立てなんてのはたかが知れていました。

 

平日は弁当持参だった僕にとって、昼食を買いに出ることが多かったのは、部活にでてきた日曜日。
なのにあろうことか、当の「白亜堂」が日曜休みではどうしようもありません。
しばしば宗旨変えして「マム」に行くうちに、なんだかどうでもよくなってしまったのでした。

 

「マム」のおばさんは気さくな人で、店の雰囲気も悪くなく、
さらに空腹に抗ってまで貫くこだわりではなかったのだから、まぁ当然の成り行きといえましょう。

 

文化祭恒例の「大のど自慢」で、毎度ウケねらいで参加する空手部が「マム」を茶化します。
ダークダックスの発声練習よろしく、4人並んだ男が端から音程を変えながら、
「マム-」
「マム-」
「マム-」
「マム-ゥ」

 

観客には、そのあとの「時には娼婦のように」の方が受けていたけれど、とにかく、そうして僕らの日常に「マム」は認知されていきました。

 

・ ・・・・・・・・・・・

 

文化祭では例の「白亜堂」の絵が並べられました。
見に来た友人はみんな、絵の善し悪しなんぞわからないけれど、何が描いてあるかはわかったようです。

「白亜堂じゃん」

 

そしてにやにやしながら付け加えます。
「マムの絵はないの?」

 

今よりはるかに生真面目だった僕は、そうか、マムも描かなきゃ、バランスを欠くなと、そんなことを考えていました。

 

3

 

僕らの三年の時の担任は体育の教師だったのだけれど、いっぷう変わっていて、体育系には珍しく言葉の力を信じている人でした。

 

彼はよく話し、又、僕らにも話させたものです。

 

いや実際、帰りのSHRの時に、順番に生徒を指名して、「何か話せ」というのです。
「何でもいい、最近の出来事とか気になったこととか、とにかく話すこと」
まぁ強引といえば強引ですが、結構僕らも楽しんでおりました。

 

夏にサイクリングにいったやつが、人気のない山道で日がくれて、やっとのことで何かの飯場にたどり着いて、泊めてもらったという話。

 

水産学部が志望の男の、飼っているカニが孵化したというだけの、それでも感動的な話。

 

下手な授業よりよく覚えております。

 

僕の順番もほどなくまわってきて、こんな話をしたものです。

 

「えーと、美術部なんで、絵を描くんです。・・この間っていうか春休みに、あの、マムを描いたんですね」

 

「で、描いていたら、マムのおばさんが出てきていうんですよ、譲って下さいって」


「譲るったってただじゃないぞって思ったんだけど、まぁ、そんな強欲なことをいっても仕方ないんで、あげることにしたんです」

 

「そんなわけで、この前、絵を持っていったのですよ、マムへ」


「そしたら、おばさん本気で買う気だったらしくて、おいくらですかって聞くんですよ」

 

「俺、舞い上がっちゃって、結構ですって置いて逃げてきたわけ」

 

「それからなんか、気まずくて、しばらくマムにいけなかったんだけど、この間ひさしぶりにいったら、おばさんちゃんと覚えていてなんだか紙袋をくれるんですよね」


「で、これもしかして現金入ってるのかなと思って、どきどきしちゃって」

 

「部室に持って帰って、恐る恐る開けたら、ハートチップルが入ってるんですよ」

 

・・・・・・・・・・・・

 

ハートチップルというのは、なぜか当時、僕らの学校で一世を風靡したスナック菓子の名前で、要は、僕の初めて買い手のついた作品は、100円そこそこの駄菓子との物々交換だったという、そういう情けない話。

 

スピーチはまあまあウケて、おかげで僕は、普段付き合いのない女子からも「美術部のタグチくん」として認知されたようでした。

一方、件の絵は、「マム」の冷蔵ケースの上に鎮座したのです。

 

だからといって僕らの日常に何の変化もありませんでしたが、とにかくそんなことがあって、僕の高校時代は終わったのでした。

 

4

 

僕が再び市高の校門をくぐったのは、それから5年後。

 

この学校は僕にいろいろなことを与えてくれたけれど、幸か不幸か、将来の目的として美術以外の選択肢は与えてくれなかったようでした。
僕は、家族も友人も、そして僕自身も予測したように、そのころには美大の学生になっていたのです。

 

着なれないジャケットに、借り物のネクタイ、そう、6月の風物詩、教育実習です。
会議室には溢れかえるほどの実習生。
僕は浪人生活も経験していたので、そこに同学年の友人がいなかったかといえば、この学校の生徒は、みんな1年か2年は遅れて大学に入るので、知った顔ばかりなのでした。

 

・ ・・・・・・・・・・・

 

おどろいたことに、正門前に「白亜堂」がありませんでした。

閉店しているというレベルではなくて、あの寂しいベンチの置いてあった店先が、すっかりモルタルの壁に覆われて、店事体が存在していないのです。

 

ばあさんが体調を崩したか、あるいは亡くなったのか。

ある日突然店が開かなくなったのか、それとも年度の終了を待って閉店したのか。
何かのお知らせがあったのか。
生徒はどう反応したのか。

 

その最後がどんなふうだったのか、僕にはまったくわかりません。
100年前から存在して、100年後もそのままであるはずだったのに、
僕らの「白亜堂」は、30年目を迎えるか、迎えないかの頃に、その歴史を閉じていたのでした。

 

一方「マム」はといえば・・・。
今や市高の生徒のすべてを引き受け、ごくごく当たり前の存在になっているようでした。
そうそう、後輩の女の子達は「マム」を「マム屋さん」と呼ぶようになっていましたっけ。
初めて聞いた時はなんか奇異な感じだったけれど、たぶんもう永遠に「マム屋さん」なのだろうと、僕には変な確信がありました。

 

彼女達はきっと、この学校のパン屋さんは、ずっと昔から、そして未来永劫「マム屋さん」だと思っているのです。

 

・ ・・・・・・・・・・・

 

さて、問題は目の前の教育実習。

 

美術部の先輩やら後輩だのが、美術はもちろん数学や家庭科の実習に、あわせて5人もきていました。

毎日がにぎやかな同窓会。
当然、放課後は部室にたむろして、気持ちはすっかり高校生に戻っていたのですが、そうはいっても、とりあえず授業だけはやらなくてはなりません。

 

驚いたことに、恩師は初日から出張に出ていって、最初の授業で、僕は紹介されるでもなく、いきなり「あ、どうも、実習生です」などとおずおず出ていったものでした。

 

研究授業のテーマは「どうしたら上手く描けるか」という、今から思えば赤面ものの、正攻法。
そんなものわかってたら、誰も苦労しないのだけれど、とりあえず大真面目なのでした。

 

・・・・・・・・・・・・

 

面倒な問題や、教師の悩みなどには、まったく関わらなくてもいい疑似体験。若いというだけで、無条件に迎え入れてくれた生徒達。
楽しい2週間はあっという間に過ぎました。

 

そして、それっきり僕はここに来ることがありませんでした。

 

5

 

僕はいい年の大人になりました。

 

その間のほとんどは高校の美術教師としてすごし、時間割りとチャイムにそって生きてきました。
入学式、遠足、試験、夏休み、合宿、文化祭・・・そして部活動。
気持ちの半分は高校生のままだったのかもしれません。

 

40歳目前に、ふと自分の作品をしばらく作っていないことに思い至り、いろいろ考えて勤めをやめました。

 

今は毎日、ただ作品をつくる生活をしています。
僕はもう、自分のことを僕とは呼びません。

 

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最近、制作にいきづまると、わたしはネット上をあちこち見てまわります。
この間、偶然覗いたページでこんな記述に出くわしました。

 

『(サッカーを見るために)北浦和から駒場まで歩く。ちょうど中間地点あたりにわたしが卒業した高校があるので、その前を通っていく』

 

ああ、この人は同窓生なのだ。
駒場スタジアムは、今でこそ全国区ですが、昔は、母校のマラソン大会のスタート地点に使っていたような、マイナーな陸上競技場だったのです。

 

そして
『マム屋(パン屋)は相変わらずあるなあ、とか、このあたりも地上げがあったのか、駐車場になっているところがあるなあ、とか思いながら歩く』と続きます・・。

 

「マム屋」かぁ。

わたしは全然知らないこの方のページにコメントを書くことにしました。

 

「マム屋」のひびきが懐かしかったこと。
そしてあの店に飾ってあった油絵は自分が描いたこと。

 

何も、絵のことまで書く必要もなかったのですが、たぶん同窓生なら、あの絵のことを知っているに違いないと、そんな自負があったのです。
仕事をやめてから、他人とつきあうことが少なかったので、そんなことをもちだしてでも、人と接したかったのかも知れません。

 

さて、ほどなく返事のコメントがあって、またそれにコメントをつけて・・何度かのやり取りの末、わかったことは、なんとこの方は、あの教育実習の時に、わたしと顔をあわせていた、美術部の後輩であったという事実でした。

 

驚きました。
そして、20年前にもらった部員名簿があるはずだと、昔の資料をひっくり返し、見つけだした茶色のわら半紙に、たしかに彼女の名前を発見しました。

 

「マム」に絵をおいてこなければ、こんな楽しい偶然が訪れることもなかったかなと、めずらしく気持ちが高揚した出来事。

 

わたしは長い時間をおいて、もう一度、あの頃を思い出すことになったのでした。

 

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ちょっとした余談。
見つけだした部員名簿。なぜだか、あちこちにはんこの押してあるのでした。
そういえば、20年前、先輩のカクタさん、後輩のタロウの実習生3人で、「どの子がかわいい?」「俺はあの子だ」と、出勤簿に押すはんこをぺたぺたやったんだっけ。

 

当の彼女の所にもしっかり押してあるので、さてどんなにかわいい子だったのかと一生懸命思い出そうとするのですか、どうにも顔が浮かびません。

 

一度お会いしたいものです。

 

6

 

そんなことがあって、ほんの1週間かそこら後に、思いがけないことが、もうひとつおこります。

 

ある日、わたしのもっているホームページを通して、一通のメールがやってきたのです。
差出人は母校の放送部に所属する学生でした。

 

彼女達が「マム屋さん」の番組を制作していること。
その過程で、飾ってある油絵に興味をもったこと。
ネットで検索して、私のところにたどり着いたこと。

 

そんなことが、多少たどたどしくも、丁寧な文章で説明してありました。
そして、できれば一度話を聞かせてくれと、そう結んでありました。

 

そういえば、昔から放送部は活発にやっていて、しょっちゅう表彰なんかされていましたっけ。どうやらいまだ伝統は健在のようです。

 

しかしまぁ、20年間も音沙汰なしだったものが、ここにきてつぎつぎと、いろいろなことがあるものです。

 

どうせひまなんだし、とくに断る理由もありません。ひとつ顔を出してみるか、わたしはそう決めたのです。

 

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気持ちよく晴れた土曜日。
母校はかわらずそこにたっていました。

 

ディテールをみれば、
見たことのない新しい校舎。驚くほど大きく育ったランドスケープツリー。
いろんなことが目につきます。
校門のあたりから見た風景は、何か違う学校のようです。

 

もちろん、過ぎた年月を考えれば、かわらないわけがないのですが、それでもちょっと寂しい気がします。

 

ところが一方の「マム」はといえば・・・、呆れるくらいそのままなのでした。

 

おばさんは少々年をとり、わたしの絵は、驚くほど退色していたけれど、あとは商品棚から、リノリューム張りの床まで、なんにもかわっていないのです。
いや、それどころか目立つところに、例のハートチップルさえ置いてある!。
一瞬ここは時間が止まっているのかと思ったほどです。

 

後輩達に促されて、私はカメラの前でポーズをとり、おばさんと、実は初めてしっかりとお話したのでした。

 

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けれど・・・。
冷静に考えれば、なにもかわっていないはずなのに、開店の頃あれほど小綺麗に見えた「マム」は、もう、どう見ても時代遅れの、ちょっと古臭い店になっていました。
そう、ちょうど「白亜堂」がそうだったように。

 

「マム」は去年開店25周年を迎えたそうです。

 

「市高とともに25年」、今となれば、それはこの店のキャッチフレーズでもあったのでしょう。
「マム」の店内の、サッカー部や野球部やその他諸々の寄せ書き。
この店の番組を作ろうという後輩達
この店もまたずっと愛されてきたのです。

 

たぶんこれからも。
わたしは、少しだけ僕に戻っていました。

 

2004/9/3